Le Journal de Mickey は、フランス語圏の中で最も読まれている新聞のひとつです。現在は週に13万部近く売れており、子供新聞の代表となっています。しかし、多くの読者が気付いていないことは、 Le Journal de Mickey はアメリカ製ではなく、フランスの報道監督が立ち上げた、メード・イン・フランスです。
Le Journal de Mickey の誕生
発行者ポール・ウィンクラーの紹介
ポール・ウィンクラーは、ハンガリー銀行の取締役の一人っ子として、1898年7月7日ハンガリーのブダペストで生まれました。彼は故国を離れ、ドイツに行き、その後オランダのアムステルダム大学を卒業しました。 1920年代に、彼はオランダを離れ、パリに移り、1932年にフランス国籍を取りました。そこで、彼はポール・ヴァンドールと名乗り、ハンガリー移民のための記事を書き始めます。 1928年、報道機関「オペラ・ムンディ」(Opera Mundi)をパリのオーベル通りに設立し、ヨーロッパの報道機関のためにニュースや記事を書いていました。 オペラ・ムンディは、1915年に、時代の英雄をテーマにした数々の漫画雑誌を配布しているアメリカのパブリッシングハウスであるKing Features Syndicate(KFS)の代理店欧州中断局になりました。その結果、フラッシュ・ゴードンの冒険(des aventures de Flash Gordon)、魔術師マンドレイク(Mandrake le Magicien)、王子ヴァリアント(Prince Vaillant)をフランスのメディアに配布する権利を獲得します。
ミッキーマウスを大画面で見たポール・ウィンクラーは、ミッキーマウスの物語も公開したいと考え始めます。 彼はウォルト・ディズニーに許可を得るため、個人的に手紙を書いたと1979年に発行された Le Journal de Mickey のインタビューで語っています。 返事の手紙を受け取った後、1930年初めてミッキーを、『プティ・パリジャン』誌のコラムに載せました。 その後、1931年、彼はアシェット出版社(Hachette)と協力してミッキーマウスのアルバムを始めて出版しました。
1933年、ポール・ウィンクラーは子供のための新聞を作るために動き始めます。
当時、子供向けの小さな規模の出版はあるものの、大きな規模の子供雑誌は存在していませんでした。彼は再び、アシェット出版にこの話を持ち込み、彼がその雑誌のディレクターを務めるという条件で、パートナーシップを結び、 Le Journal de Mickey の制作に取り組みました。
ウォールト・ディズニーとの出会い
制作法
1934年10月21日(日曜日)に Le Journal de Mickey が世に初めて出ました。その結果、国際的なスターとなったミッキーマウスの冒険を焦点に当てた Le Journal de Mickey は当時、40万部近くの売り上げを記録した大成功の雑誌となりました。ウィンクラ―は、この成功をディズニー兄弟に報告しようと、ハリウッドへ向かいます。彼によると、ディズニー兄弟は雑誌を手に取ると、「ミッキーマウスという名前が付いた世界初の雑誌だ」と言ってとても感動していたということです。この時、空港に彼を迎えに来たドライバーが、ドナルド・ダックの元音声を担当していたクラレンス・ナッシュだったと驚きを語っています!
不思議な話
初号は1934年10月18日、木曜日(当時、子供の休日の日)にリリースされました。 しかし、不思議な事に、それは10月21日(日曜日)と書かれています。どこかで、毎日が楽しい日曜日というイメージを作りたかったのでしょうか?
JOURNAL DE MICKEY が成功した理由
当時の雑誌は8ページで構成され、その半数はクオリティーの高いカラー印刷のアメリカ漫画、フランスの小説、ゲーム、世界中のニュース、コンクール、科学、家庭科やお便りコーナーなど、バラエティーあふれる項目が含まれていました。
世界的ヒットしたアニメーションの漫画版
一般の新聞のサイズであるこの雑誌は、ミッキーの冒険を紹介するだけでなく、シリー・シンフォニーや長編映画も載せていました。映画史上初めてのアニメーション映画した「白雪姫と七人の小人」は1938年5月から新聞の一面を飾るようになりました。
特別号の発行
イースター、夏休み、新学期やクリスマスには特別な時特別号が発行されました。
イギリスで出版されていた、Mickey Mouse Weekly のダイナミックな表紙を再利用しています。
イギリスで出版された Mickey Mouse Weekly (216)
フランスで出版されたLe journal de Mickey
ゲーム:丸を切り取って、鏡にうつす
1832年にベルギーのジョゼフ・プラトーによって発明された「回転のぞき絵」を使って「ミッキーマウスのアニメーション」を再現しています。
Le Journal de Mickey は1935年に40枚余りの「回転のぞき絵」を一面に印刷しています。
説明書
読者とのコミュニケーション
読者とのコミュニケーションを大切にしていた Le Journal de Mickeyはさまざまな工夫をしています。
クラブ・ミッキーマウス
クラブ・ミッキーは4号の新聞に初めて掲載されました。こちらは、学校の休みに合わせ、色々なイベントをフランス各地で行う、子供用の会員制クラブです。読者とのコミュニケーションを大切にしていた Le Journal de Mickeyはさまざまな工夫をしています
ミッキーマウスと同じ誕生日のお子様にスペシャルプレゼント?!
こちらは1936年10月4日(103号)に載せられた子記事です。
ミッキーマウスと同じ生年月日、1928年9月28日に生まれた子供たちに6ヶ月間無料で Le Journal de Mickey が配られると言う記事です。当時、8歳の子供が対象でした。
「お便りコーナー」Onc 'Leon
レオンは Le Journal de Mickey 作りを手がけた一人。 彼は子供たちのことを、「姪っ子」や「甥っ子」と呼び、毎週沢山の子供から送られてきた手紙の中から一つ選び、甥っ子や姪っ子の悩みや質問に答えるだけでなく、時には勇気づけたり、マナーを教えたりと、子供たちにとって大切な存在でした。
“子供は紅茶を飲んではいけないのですか?”と言う質問に答えるレオンおじさん。
科学・工作
目の錯覚
コンパスで描かれた二つのチューブ型の図を見てください。どちらが入り口か分かりますか?
不思議と角度によって、右に見えたり、左に見えたりします。
万年筆ホルダーの作り方
万年筆を使い終わったあとにキャップを
閉めなくてもいい万年筆ホルダーの作り方の説明。
世界のニュース
面白いニュース
イギリスで…
イギリスでは昔、自宅のガスを使う時、1シリングを機械に入れると、何分間か使えるシステムになっていました。ある男性は、丸い形に水を凍らし、コインの代わりに入れ、ガスを使っていました。氷は時間がたつと溶け、影も形もないため、ガス会社に気づかれないと思ったのです。しかし、ガス会社の社員が“さび”の存在に気付き、彼の仕掛けが見破られました。
迷子の犬
アメリカで…新聞が読める迷子になった犬。飼い主がペットの迷子コラムに出した新聞をくわえながら、自ら戻ってきた。
テーブルの上にこぼれた塩
レオナルド・ダ・ヴィンチが描いた『最後の晩餐』の絵をよく見てください。
裏切者のユダのテーブルの前に、ひっくり返ってこぼれている塩が描かれています。欧米では、現在でも塩をこぼしてしまうことが不吉なことが起こる前兆と言われています。
当時の日本のニュース
日本のニュースを沢山取り上げているのをみると、フランス人にとって日本は興味深い国だったことが伺えられます。
クジラの背中に乗って助かった
鯨船に乗っていた8人の漁師はクジラが尾っぽで暴れたため、船が沈没してしまいました。
8人は急いで、クジラの背中の上に乗り、かろうじて、命が助かりました。クジラが再度海に潜った時は別の船が助けに来てくれました。
鵜飼いの紹介
日本では鳥を使って魚を取ると言うとても珍しい釣りの仕方を紹介しています。
日本の地震
世界で一番、地震の被害が大きい国:日本。
1934年度は地震の復興に40億フラン以上かかったと紹介しています。
日本の時計
世界発:400日に一回しかネジを巻く必要のない時計をFUJINO SEMTARO氏が発明したと紹介してあります。日新堂で販売したMaster clock 400日時計 1954年に日本ではじめて完成し販売を開始しました。状態も良くなかなか綺麗です。新品の使われていない状態で骨董屋の店先にありましたが、あまりに綺麗なのでクオーツ時計と間違えたのか誰も買っていきませんでした。おかげでとても安く手に入れられました。長年動かしていなかったので調整が難しく半年かかってようやく調整ができました。
2000以上の活字文字があるタイプライターの紹介
フランスでは45の活字文字があるタイプライターに対して、2000以上の活字文字がある日本のタイプライターに驚いている記事。
インフォメーション
杉本 京太氏(すぎもと きょうた、1882年9月20日 - 1972年12月26日)は、邦文タイプライター[1](和文タイプライター)の発明者です。
和文タイプライターは、1915年に杉本京太氏によって考案され、1920年代以降、各所で使用されました。特に公文書や商用文の作成の効率向上に貢献しました。アルファベットを入力すれば文章を作ることが出来る英文タイプライターと比較して、この和文タイプライターは2000個以上の中から活字文字をピックアップして打ち出すという複雑なメカニズムを持っています。さらにこの2000個の活字の位置を使う人は記憶しておかねばなりません。したがって、その使用には熟練した職人芸が必要とされます。複雑なメカニズム自体も興味を引きますが、日本独自の発明品であることから外国においても注目されました。1980年代以後は、ワープロやパソコンの出現によって次第に姿を消していきました。現在ではほとんどその姿をみることができません。
様々な賞付きのコンクール実施
数字を使ったお絵かき
職業を表すサイン
Charcutier 肉屋
Coiffeur 床屋
Musicien音楽家
Fumiste 暖炉職人
逆さ絵
戦時中の Journal de Mickey
ポール・ウィンクラーのアメリカ移住
1940年6月、ポール・ウィンクラーの人生は歴史に翻弄され、大きく展開しました。
当時は第二次世界大戦(1939~1945)の真っ最中。
1940年6月14日、ドイツ軍によってパリが占領され、フランス政府は降伏に調印します。
それ以来、フランスとドイツの間での協力関係が始まったため、ユダヤ人であった ウィンクラーは、家族と一緒に米国に移住せざるをえませんでした。
Le Journal de Mickey 発行する難しさ
一方、フランスでは、Le Journal de Mickey の事務所はパリから自由地域のマルセイユに移転しました。しかし、当時は戦争中。過酷な状態の中での出版に悩み苦しまされました。 紙不足のため、「ホップラ!」(Hop-là!)というオペラ・ムンディが出版している別の子供新聞と共同で出版することになりました。1934年にはサイズも著しく縮小し、アメリカ製の漫画が発行禁止になり、吹き出しスタイルをやめ、昔のボックススタイルに戻りました。また、カラー印刷のクオリティーを落とすこともしばしばありました。1944年は、致命的な年になりました。Le Journal de Mickey は7月の477号が最後の新聞になったのです。
戦時下での生活の子供へのアドバイス
戦後の Journal de Mickey
新しいJDMの再スタート
戦後、ポール・ウィンクラーは、フランスに戻り、オペラ・ムンディ内に監督の座を見つけました。
1945年には、女性雑誌『Confidences』で活動を再開しました。
1947年3月23日には『Hardi présente Donald』という新しい8ページの週刊誌を発行しました。これは、1953年3月22日を最終号として、313号まで出て廃刊になりました。
1952年にウィンクラーは、フランスのウォルト・ディズニープロダクションのディレクターアルマン・ビーグルと組み、『ミッキーマウス・マガジン』をスイスとベネルクスで発行しました。
同年6月1日に、『JOURNAL DE MICKEY』がEDI MONDE によって編集された新しい16ページ版がキオスクに再び並びました。これは、1977年までウィンクラ―によって続けられました。このジャーナルの成功は予定通りで、毎週50万から70万部売られました。1976年に、アシェット・グループの夕刊新聞『フランス・ソワール』を買収しました。ポール・ウィンクラ―は、1982年、9月23日に84歳で死ぬまで『フランス・ソワール』のオーナーの地位にありました。出版界のトップとして、彼は、フランスのキオスクにアメリカの漫画とディズニーの世界紹介した、9番目の芸術の代表的な著名人です。
ウォルト・ディズニー・カンパニーとの仕事で、彼は、1997年にディズニー伝説賞を死後与えられました。
フランス独自のミッキーマウスの誕生« Mickey à travers les siècles »
(時代を旅するミッキーマウス)
こちらはフランスのみで発行された漫画です。
フランスの歴史を舞台に、ミッキーマウスの冒険が描かれています。
世界のミッキーマウス
日本ではミキクチ!?
当時、ミッキーマウスの呼び名が異なっていることを紹介しています。
ドイツではMIKI MAUS
スペインではMIGUEL RATONCITO
日本ではミキクチ!?
日本では戦時中は「ミッキーマウス」を『ミキクチ』と呼んでいたことがあったと噂になっていますが、“漫画の神様”と呼ばれる手塚治虫によると「アメリカの出版社のミッキーの紹介の本に、世界各国のミッキーの呼び名の表が出ていた。で、日本では何と呼ぶのか?「MIKI KUCHI」なのだ。ミキ・クチってなんだ?日本でそんな呼び名なぞ使うものか。ぼくは頭をひねって考えた挙句、謎が解けたのである。この日本名を編集者に教えたのは在米邦人の誰かに違いない。編集氏はきっとその日本人に「マウスって日本語で何と言うの?」とかなんとか訪ねたのであろう。多分その日本人はSとTHの発音の区別がアイマイな留学生でMOUSEとMOUTHを聞き違えて、それはクチだと教えたに違いない。かくして、正直な編集者はそのままミキクチと書いてしまったのである」。「ミッキーマウス60歳アトムはミッキーの甥っ子っみたいもの」より 「キネマ旬報」1988年11月下旬号掲載)
イタリアでのミッキーマウスの刊行物:Topolino
Journal de Mickey がミッキーマウス初の雑誌と思いがちですが、実際は1932年にイタリアのフィレンツェでTOPOLINO (小さなネズミ) という雑誌が出版されました。しかし、こちらのミッキーはイタリア人のGiov Toppi氏が描いたものであり、出版権権利を得てなかったのです。
ミッキー誕生90周年記念グッズ
ミッキーマウス コインコレクション
フランス国立造幣局は、2018年に90歳を迎えたミッキーマウスの誕生日を祝うため、
「ミッキー&フランス」という名のコレクターコイン・シリーズを発行しました。
当コレクションは、そのシリーズの第1弾目に相当し、10ユーロ銀貨の10種です。
各コインに、旅を楽しむミッキーの姿とともにフランス各地の名所や特色が刻まれています。
ウォルト・ディズニー没後50周年記念メダル
©Yukitamako
テキスト奧野クロエ
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